ニ十歳からの学級通信

十代の君に教えそびれたことがある

吉田寮食堂10月公演『今』を観てきましたpart2

表題の芝居は過去編の「宵山」と未来編の「盆」を交互に演じる公演である。結局書かないとモヤモヤするので「未来編」にもコメントする。

 

さて、前回「過去編」の感想で、「ある意味アイロニカル」「すごく冷徹」と書いた。

 

ところがどっこい。この「未来編」は手塚治虫の『火の鳥 未来編』ばりに結構な遠未来なのだが、吉田寮(らしき場所)が当然のように存在している。

 

小林欣也という男は吉田寮が遥か彼方の未来まで存続することをナイーブに信じてるのだ。

全然シニカルじゃないじゃん。めっちゃドリーミーじゃん。

これはちょっと凄いことですよ。

吉田寮百年の歴史、その自治と管理の相剋を巧みに描いて見せた男が、一方でこうドリーミーであるというのは、つまり自治の勝利宣言に等しい。

つうかもう宣戦布告じゃん。

 

とはいえ、この未来編における自治寮の存続は決して華やかな勝利としては描かれていない。

 

作中の描写からして、どうも本体である京都大学がもうとっくに地球を去ったか(もしくは滅んだか)してもまだ吉田寮は当地に残っている、というフシがある。

付属物であるはずの学生寮が大学より長生きしてるのだから、恐るべきことだ。

だが、ここで過去編の作劇法に倣って『管理者』側の視点に立ってみると、この状況は管理者が管理すべき対象を見失ったともとれるし、自治寮を見棄てたとも言えるかもしれない。管理者たる京都大学(のようなもの)は地球なんぞに存在する某寮を最早脅威とも認めておらず、管理する価値を見出だしていない。

 

こんなに淋しいことがあるだろうか。

 

厳密には作中で、その場所の管理会社から派遣されたと名乗る男がその空間の解体を宣言する場面があるが、これは狂言であり、どころか彼の発言は全て虚言であった。そして、あえて解体宣告を虚言・狂言として描くことで、真に解体を宣告する者は不在であることが強調されている。

 

切ない勝利である。

 

作中世界は木々もセミもほとんど機械に置き換えられており、「その場所」だけが本物のセミと木々、それと本物の生活を有している。

 

そこまで来たら、それは「最後の理想郷」などではなくもう一種の博物館である。

 

つまり、吉田寮の歴史に終わりがあるとすれば、それは管理による自治の粉砕ではなく、管理側の忘却によって静かに自治が完遂されそしてそのまま閉じていく時なのではないか、と。

そして、そうであっても、歴史の幕が完全に下ろされるその時まで、その場所を愛する人達がゴチャゴチャと自堕落に、そして彼らなりに強かに生きていくのだろう、と。

 

この芝居はそういってるのかもしれない。(違うかもしれない)

 

なんて冷徹でアイロニカルなんだ…。

 

しかし、これ以上に痛烈な京大当局批判も無かろうと思うのである。